「善意の転載」・かかわるという事

最近の氏による新たな転載問題ですが、最初に記事を作成された方の「転載禁止」が決まったそうです。それはご本人にいろいろな方が様々な考えを押し付けではなく、あくまでも聞いていただきたいと思う気持ちでなさったのだと思います。そしてそれはなされました。記事を書かれた、そしてそれを転載禁止にされたこと・それをお願いされた
方々の真摯な対応はとても真の・芯のある事と思えました。ネットとしての力はあるのだと。

子供のことを思い、そして被害がないようにと願う気持ちはとても美しいものだと思います。それに対して初心者に
様々な「基本」を教える立場の人間が「かかわった」。自分のお尻も拭かないままで気になる人には注意して回った・・・

かかわるってとてもきっかけは簡単そうでなかなか難しいものです。どこまでかかわっていいのか本当はわからないことがたくさんあります。

とても真剣に話を聞きながらも違う別のことも同時に考えたりと。または自分なりに「決着」をつけて自己完結だってできます。それが良いか悪いかもまた白黒つけるには難しい問題です。

先の転載問題ではOYAJI氏には質問をしてみましたが、「この記事を転載した人間すべてに転載禁止のお願いをしたら話を聞いてやっても良い」という意向の回答を頂いて、「この人のかかわりってのは自分に返ってくるメリットの大きさにしか興味がないんだな」と少し感じました。

ライブドア村上ファンド、何かしら「勝っているあいだ」は自分のやり方に疑問を持ちにくいものなのでしょう。
しかしながらそれは急成長するも育ちにくいものでもあります。育つべき「養分」が追いつかない。
そしていったんしおれたらそれはあまりにもあっけなく枯れてしまいます。そのころには「かかわったもの」はとっくに避難しています。OYAJI氏は自分で成長させ、自分で養分を供給せず、そして自分で「避難する」総合プロデュースです。

今はどうか「かかわらない勇気」を持っていただきたいと思います。そして転載禁止にされた記事に対してのフォロをーすべく「この記事は転載禁止となりました。どうぞご協力ならびに呼びかけをお願い致します。」などの記事を「余計なオマケ」なしにて掲載ください。それこそが「かかわる」事です。