「善意の転載」 包丁のたとえの切れ味 

最近ですが、氏に関して理路整然とした意見をもたれる方のブログがまた増えました。私のような攻撃的な言葉ではなく、落ち着いて解析をされて

いますのでとても読み応えがあります。そこでは氏のコメントは水面に浮かぶ油のように浮いています。



なにかしら氏の転載を引用する言葉として「包丁のたとえ」が出てきます。「料理人が使えば立派な道具になるが、殺人犯が使えば凶器になる。」

・・・まぁ、それをいってしまえばたこ焼きの屋台の千枚通しから非常に鋭利な付け爪を詰めた女性まで全てが暗殺者になってしまいますが。


転載機能を包丁にたとえたという事なのですが、あまりたとえとしては「ぴん」とくるものがありませんでした。

氏は初心者に「ヤフー限定機能」に特化した「ブログを着飾る」教習をしているわけですが、料理教室にて初心者に対して懐石料理を教えている

わけではなく、また「衛生面」を指導しているものには見えません。リンゴでウサギを作ったりなどの楽しいようなものへの教習です。


もしもちゃんと料理を教えるのであれば、そういったことは100ある教えることのなかでは97番目くらいに出てくるようなものでは。

自身は「立派な料理人」である?が故に、転載はちゃんと「調理」できると思い込んでいましたが、結果は数百人を越す「食中毒」になりました。

いつもの繰り返しになりますが、それに対しては「食べたほうが悪い」という事ですが・・・


つまりは包丁の扱いではなくて「それを使う衛生面」が悪ければ誰だって事故はおきるというべきだと感じます。

それならば、「そういう場は閉鎖しましょう」で解決します。恐らくヤフーが転載機能を付加したのは最初期のブログからみた差別化のような

「客寄せ」だったのかもしれませんが、未だに「ベータ版」を自負している状態では改善はまだ先かもしれません。


「料理人が使えば立派な道具になるが、殺人犯が使えば凶器になる。」だからといって包丁メーカーがヤフーという位置付けだとして、それなら

使わないでメーカーが潰れるということでもありません。メーカーが「殺人には使わないでください!」というわけでもありません。

氏の言うところの「料理人」を選んで全てにおいて調理をしてくれるのであれば、それは味の良し悪しをどこかに追いやって、同じ物だけを常に

供給されて食べるしかない独裁的な状況下のシステムにしかなりません。病院や刑務所の出す食事を「黙って食べなさい」なんでしょうか。 




「包丁は料理人が使えば立派な道具になるが、だからといってふぐを調理できるとは限らない。それは立派な大量殺人ともなり得る」

「殺人犯が使った包丁は「ツール」として選択したのであって、必ずそれを使わなければいけなかったわけではない。」

内容によっては1匹のふぐだけで大量の犠牲者がでるわけです。調理人の「自覚」もなく。