「善意の転載」 善の孤立化

先日ある宗教の勧誘を受けました。おそらくはいたって普通の感覚の持ち主でしょうが自分の信仰するものに

傾倒しているのか、周りの意見は聞かずに素晴らしい(ような)ことを話すのみだったので普通にお断りをして

別れました。



おおよその場合には善意というものは無償の行為であり、何らそこには上下関係なども無い環境である事でありたい

と思います。参加するにも直接であり、間接でもあり、各々の事態によって変わるものでもあります。



あの転載ではいわゆる「メリット」というものは何だったのでしょうか?メリットがあるから転載は有用であるなら

それはアフェリエイトのような「いかにそこをクリックしてもらうか」のアイデア勝負と何ら変わらないのでは。

そこには効率の良い作業とアイキャッチの相性を模索すればそこそこに効果ある媒体が生まれるのです。

そして時事によって記事はその都度に色を変えて形を変えて登場するのです。

メリットを享受するものとしての善意の行動はそれは善意として成立するのではなく、最初にそれを「した」人物の

占有権みたいなものなのでは?と感じます。陣地の上に立つ旗のような。第一発見者の功績は大きいですが、

それは場合によってであり、全てに当てはまることには絶対にならないのです。




善意を前面に出されたときにはいわゆる「踏み絵」に近い試され方が待っている場合もあります。

そこには日本人としての「ケガレ」の文化もあるのかもしれません。避けて通る事が自問自答するような。

ちょっと昔であれば、疑うことこそ不義であったでしょうし、そのような事で不正をする事が悪しきものとして

はっきりと見られていたのでしょうし。



何かしら訴えたい気持ちにメリットを付加してしまうのであれば、善にとっても文字を付加せざる得ません。

それは独善という言葉に変身してしまいます。その付加は当然ながら不可です。

その違和感にたくさんのしろやぎさんが手紙を出して・・・・です。