「善意の転載」 スルメのススメ

氏に対してとても忍耐強く真摯んな態度で応対されている方の記事でも、やはり「相手の言葉をよく理解する事」

と、誰も「談合」していないのにもかかわらず氏に対して同じような意見が出ています。

そこには誰が最初に端を発したということは大前提ではなく、「だから・・・」という平行線で占められています。



日本人は古来から俳句など「言葉遊び」に長けていた歴史があります。そこにはその言葉の単語だけでの捉え方では

到底無理な深い読みがあります。相手の言わんとする事を読み取り、そしてまた返す・・

非常に限られた文字数の中でそれを作り上げる高度な文化のDNAがあると思います。

それは日本語のラップでもとても「相性」の良い語呂となって、しかも今風に解りやすい「韻」も入っています。



それこそ昔はテレビもゲームもなく、考える時間もそれなりにあったのかもしれませんが、電気もないので夜には

行灯の傍らで月夜を見ながら「ゆっくりと早く」想いを練っていたのでしょうか。

ですから先方からの意見という「句」に対して速攻で返答するのは失礼に当たるか、又は相手の言葉を読まないで

「単語」としてなぞってしまうのかもしれません。



言葉を単語として理解するのは欧米的な感覚であればまた別かもしれませんが、いくら日常のほとんどが非日本的な

衣食住で占められていても心の奥襞まで染み渡っているわけではありません。

日本語という単語をその言葉だけで解釈するには良くも悪くも「単」的な考えであり、それはつなぎとしても貧弱に

なってしまいます。(相手を落胆させる場合には有効)


日本語はスルメのように噛めば噛むほど味がでてくるものであってほしいですし、それは相互にとって、たとえ

人間的に嫌悪感を感じても、

                   (最終的には)

良き議論であったと月夜を見ながら耽る時間でありたいです。