「善意の転載」 通りすがることの勇気

昨日から氏の「別館」にて意見を話しておりましたがどうしても誰かの意見也批判を勝手にするのはけしからんと

主張される部分、又はたまたま通り過ぎた方の意見は真摯ではない・・・という主張について考えてみました。

というよりも・・・去年の年末に自分の名前を冠にして記事を起された時点で既に上記の言った言葉とは裏腹なので

言質破綻していますのでその件については言及する価値がないとみています。




どうもご立腹されているのは通りすぎた方の意見に対してのようなんですが、私もその「通り過ぎた」事がきっかけ

となりしつこくも今に至っていますので考えてみました。



世の中は見てみぬふりをしてしまうことが多々あります。悔しいですが現実の事実として認めます。
それではその中で「踏み入れられる」べき勇気を持った行動を直感的に選別をしているのでしょうか?
それは自分にとって不利だとかメリットがあるとか・・・??もしくは若いから・お年寄りだから・・?

ネットの世界では実名の責任性や匿名での無責任性が少しずつ問われてきていますが、実名では難しい場合もまた
確実に守らなければ行けないマナーであると見ています。



匿名性による「何やってもいいんだ」的な行動は愚かですが、訴える価値のある言葉がある匿名のコメントはとても

尊重できるものです。それを通りすがりであるが故に意見を軽んじてしまう軽さがいけないことなのです。

画面では相手の心理状態を瞬時に解かる術がありません。全て最初から終わりまで均一な感情を維持できる事もまた

とても困難でしょう。それをどうやって感じ取り、先に繋げていくのはホストとしての義務ではないでしょうか。

切りつけられて当たり前の立場にいるのに、かすり傷程度で大騒ぎするのであれば壇上には立たぬが之無事です。



会話を重ねていく過程にて対話相手のそれなりが少しずつ理解できるようにもしなってきている過程であっても

そこに「〜だから」と初めから判を押すのは差別行為に似たものであり、それならば会員制にでもして「仲良く」

批判のない談話室でも作って幸せに暮らして欲しいとも思います。進化は少ないでしょうけれど。


初心者向けの記事を書いてたくさんの人に感謝されるその優越感にも似た人格形成が「ごく一般的な」社会に

降り立ったときに持論が通用するわけはなく、辛辣な意見と批判を体中に浴びてもなお保身にこだわる時間をまずは

熱を冷まして原子と分子を安定させ、なおかつその間の時間を利用して何を作るのかを様々な見地から考えて

行動に移す配慮を持っていただきたいと感じます。




陶芸家が気に入らない作品を床に叩きつける行為は勝手ですが、周囲に人がいる場合には関係のない人を自らの

作った破片で傷つける事は身勝手です。そして肩書きに「自称」がつくのであればなおさら自重が必要です。