「善意の転載」 999でパクリの旅なのか

http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20061019-105561.html


どうやらあの歌詞の問題は訴訟に発展したらしいです。そしてそこには今、「パクリ」という言葉が出ている

あの問題にも少しつながりがあるのかなと。

方や「パクられた」 もう一方は「記憶にあったかもしれない」と既に出発点が違っています。

そして謝罪に関しては謝る・謝らないで揉めているみたいです。

背景には「999」側から見れば「あのフレーズは昔からあったもの。パクリだ!」だし

槙原側では「盗作するような人ではない!」(解釈もしくはインスパイアか?)なので平行線です。


平行線・・・・著作権・・・・

最近というか、現在リアルで議論されている転載問題の構図もまた重なる部分があるような。


今回の999事件、お互いに有名であり、「固有のファン」を持つ身でもあります。しかしながら訴訟となれば

ファンの数がどうとか、昔「ホモ事件」を起こしたから人間性がどうとかなどは一切排除されて考えるでしょう。



言動と人間性が必ずこちら側が勝手に想像している人物像なわけはないのです。本人にとっては迷惑でしょうし。

しかしながら少なくともプライドを持つ両名にとっては大問題で、お互いの面子を賭けた戦いになるのでしょう。

一旦は和解か?みたいな時期もあったのでしょうがどうしても納得がいかなかったのでしょう。


しかしながらどうしても決着をつけるのであれば「訴訟」もしなければいけないわけで、果たして決着が付くかは

別としても一生精神的にも遺恨は残ると思います。


転載問題では将来のより良き?ブログライフのためにはとても有用な意見の交換場所と思いたいですし、事実

たくさんの論者の方々の多方面な意見を見ることが出来ます。1対多数の構図は伝統となってしまいますが。


999は漫画で熱中して読みました。最終的に機械の体にするための壮大な旅のために学んだことは

もしも機械の体になってしまったらそれをそのままの感情で記憶にとどめることは可能なのでしょうか。

転載もきっと機械の体のように、一旦本人のPCから離れたのであればそれがどのように使われてもそれはきっと

全く別のものとして見る・理解する事が大切かもしれません。そうでなければいけないのです。(たぶん)

どんなにすばらしい絵画でも額装によって全く違う印象になってしまいます。


もし松本氏側が負けたと仮定するとして、あの文章を「封印」するのであれば、今度はあの物語の大意が全て

変わって見えることになるでしょう。

そして訴訟なきブログ上での議論では、遺恨どころか私怨も何もかも束にしてぶつけあう事も少なくありませんが




しかしながら一度機械の体を手にしたからには生身の体には戻れないのです。