袖をふる はたりと

画面の前でたくさんの言葉に触れているとそれはたくさんの袖に触れ合うことにもなるわけで

現実の出会いでは難しいことができたりも。


ほぼ自由意志で袖を触れ合う環境に。


仕事を終えて赤蘇芳色の空のなか、銀鼠色のスーツの集団をかきわけて帰宅と同時に金茶色のお酒をごくごくと。


そして白い布にリセットしてから今日は何色を纏おうか・纏われてしまおうかと、りくりくと徘徊などしてみるのでした。





今ここにいるということは、良くも悪くも様々な体験や経験の塊りと親・先祖からつながっているものの縁の先っちょ・代表選手が自分なわけで

本当のところはひとつの「個」として・それ自体が既に「国」みたいなものであるはずですが、なかなかそうにもいきません。

袖が触れ合うたびにはっきりだったりぼかしたりと色は変わっていきます。



固有の色はあれど精神的な代謝はそれを凌駕している(はず)ので、たまにこだわりが邪魔をして新しい色を拒否したりもしますが

それが混ざることによって塩梅がよくなったりするのも拒否できないところです。

意識がそれを認めた頃には既にキモチは染まっていたりも。



するとそこには敵味方とかではなくたくさんの色がそこにたくさん存在することで自分を俯瞰的に見ることも出来るようになって

目を凝らすと似ているようで非なる色であることもまた再認識できる時間をもてることにもなるかもしれません。



平安時代には葉の裏の色までも愛でる心があったということですが、そこから引き継いでいる「さきっちょ」でもあるので

ネットもまた「えにし」と「色」を愛でることもまだまだ深く出来るはずだと思います。


そしてネットだからこその似て非なる色を見出せるチャンスもまたあると思います。

電子の力を借りて平安時代の彩りを別な形で経験しているような錯覚と妄想はそんなに嫌いではありません。